誰もいない森で木が倒れたら音はするのか?
※ネタバレ注意
日本版The story of my lifeで「"読む人がいない本 / 本がない読者"は存在しえない」みたいなアルヴィンのセリフに、「誰もいない森で木が倒れたら、音はするのか?みたいな!?」ってトムが返すセリフありましたよね?
「音」が、物の振動から生まれた波動を人間が鼓膜で感知し、脳に伝えて初めて認識できるものだとしたら、認識する人がいなければその「音」は存在しないことになるし、反対にいえば、誰かが認識すればそれは存在する。
これを最初のアルヴィンの台詞に当てはめると「本は物理的に見ればただの文字の羅列だけど、認識してくれる読者がいて初めて物語になる。」(1876の歌詞!)ってことで、個々では存在しえない「本」と「読者」を繋げるのがアルヴィンの本屋さんってことですよね。
最初に聞いた時はトムの不思議ちゃん発言だと思ってたのですが、意外にわかりやすい例だったかもしれません!
で、ふと韓国版だと「誰もいない森〜」の台詞が「トムがいないアルヴィン」だったことを思い出しました。これを先ほどの条件にあてはめると
「トムがいないアルヴィンは存在しうるのか?」
・・・
SOMLの深淵を覗いた時、SOMLの深淵もまたこちらを覗いているのだ(byニーチェ)
これについて、アルヴィンがトムを通してアルヴィンとして存在することは、SOMLの構成自体が証明してると思います。
だって、本当に生きてるアルヴィンをお客さんは1回も直接見たことないし。
トムが弔辞を書かなかったら、本を書かなかったら、家族もいないアルヴィンの存在はどこにも残らなかったでしょう。
死んだその人を全ての人が忘れてしまったら、誰もその人が存在したことを知る術がない。存在を認識する人がいなかったら、そもそも存在していたかどうかも曖昧になってしまう。
アルヴィンがpeople carry onで恐れてたのは、お母さんの存在が自分の記憶にしか残っていないことじゃないかと思います。
記憶は時間の経過と共に薄れてしまうから。
この点、時間経過の影響を受けない"物語"としてその人を残すことのできるトムは強い。(アルヴィンがパパの物語を書いて欲しかったのも納得!)
最終的に、トムの子供時代の夢だった、時を超えてどこまでも旅をする、読めばいつでも目の前に現れる永遠の存在に、アルヴィン自身がなったんだと思います。
と!そんなわけで、ギャグシーンだと思ってた森の台詞、意外にストーリーオブマイライフの核心部分があるんじゃない!?と観劇から8ヶ月経ったトイレの中で思ったのでした。
好き勝手解釈な上、論理崩壊してたらごめんなさい。でも止まらなくなっちゃったんです許してぴえん!
ちなみに確認したところ、英語版も森でした。
人生の分岐点、友情の変化、死。
somlって観点の置き所で魅力がキラキラ変わる多面体みたいな演目ですね。